2021年8月5日~8日、札幌市の中心部では、マラソン・競歩の熱い戦いが繰り広げられました。それを陰になり日向になり支えていたのが、安全な競技運営を任された関係者たちです。
会場医療責任者の重責を担った上村修二先生が見た、東京2020大会 マラソン・競歩の医療救護の現場とは——。
東京2020大会 マラソン・競歩 会場医療責任者(VMO)
上村 修二 さん
●プロフィール
札幌医科大学 医学部 救急医学講座(高度救命救急センター)/北海道病院前・航空・災害医学講座 講師。専門は救急医学・災害医学など。日本救急医学会専門医・指導医、日本DMATインストラクター。2019年から北海道マラソン準備委員会 委員長として医療救護を担っている。
マラソン・競歩の運営を支えたのは、北海道マラソンの経験とネットワーク
マラソン・競歩の医療救護体制について教えてください。
まず、オリンピックやワールドカップのような国際競技大会、市民マラソンや音楽ライブなどのイベントでは、怪我や急病に備えて医療救護体制を整えます。東京2020大会の場合は、競技会場ごとにVMO(Venue Medical Officer/会場医療責任者)が配置されました。そして、その下に選手用医療統括者と観客用医療統括者が置かれます。私は、マラソン・競歩のVMOとサッカー(札幌ドーム開催分)の観客用医療統括者を務めました。今回は無観客での開催となりましたが、通常のサッカーの試合では観客がいます。その観客のための医務室も用意する必要があるわけです。
ところが、マラソン・競歩の場合、沿道の応援者は当てはまりません。そのため、オリンピック組織委員会としての観客用救護所も置かれません。とはいえ、万一には備えなければならず、札幌市保健所と札幌医科大学救急医学講座が中心となり、北海道庁と道内の災害拠点病院の協力を得て札幌市消防局とともに沿道応援者用の救護所を含む医療救護体制をつくりました。
選手に関しても競歩の場合は、サッカーと同じように、選手に何かあれば救護所に運ぶだけでいい。しかし、マラソンの場合は、そう簡単ではありません。というのも、選手が42.195kmのコースを移動するからです。どの地点で選手に異変が起きても対応できるようにしなければいけません。そのためには、選手を見守る「目」がほしいところです。今回は、コースを複数のエリアに分けて管理していたので、各エリアのスタッフが「目」になってくれました。体調の悪い選手を発見すると、エリア長が医療チームに連絡をして、それを受けた医療チームが、その地点まで選手を迎えに行き、救護所や病院へと搬送します。このとき、コース運営や警備のスタッフの許可なく選手をコース外に運び出せません。つまり、医療チームだけではどうにもできないのです。そこで、コース運営・警備・車両・医療の担当者が一堂に集まるコントロールセンターを立ち上げました。ここにエリア長からの情報を集約して、必要があれば協議して、関係各所に指示を出すという仕組みです。これは、北海道マラソンの関係者と共に準備しました。慣れた体制で臨めたので、指揮命令系統はスムーズで、現場での大きな混乱はなかったですね。今回は、北海道マラソンで培ったチーム力に助けられたとつくづく思います。
北海道マラソンと異なり、戸惑ったことはありましたか?
驚いたのは、コース前半にパタパタと選手が倒れたこと。北海道マラソンの市民ランナーは、だいたい後半に無理をして倒れます。でも、オリンピック選手は、スタートから自分の想定したペースを必死に守り、いけるところまでいくというスタンスなのでしょうね。そして10km地点の手前から倒れていくと。医療救護体制に影響はなかったものの、想定外の事態でした。
あと、北海道マラソンだと、医療救護については実際に担当する私たちに一任されます。ところが、オリンピックともなると、各国選手団にも、マラソン競技を取り仕切っている世界陸連にも専属ドクターがいて、それぞれの立場から選手のコンディションを考えた要望を出してきます。それも考慮して、医療救護体制は完成するわけです。北海道マラソンでは経験したことのない、国際競技大会ならではの体験であり、勉強になりました。
記録的な猛暑と新型コロナウイルス感染症が心配された大会でしたが、医療救護体制への影響はいかがでしたか?
猛暑も新型コロナウイルス感染症も、想定外ではありましたが何とか乗り切ることができました。特に、熱中症対策として、ロジスティック担当者が、競技前日にも氷やアイスバック(スポーツ氷嚢)をかき集めていて大変そうでした。
新型コロナウイルス感染症の対策については、沿道での観戦自粛につきます。とても厳しい措置で、マラソン・競歩を楽しみにしていた人たちも、観戦してもらうために準備を進めてきた運営スタッフも気の毒でした。でも、「ここまで徹底した感染対策をやります。みなさんも協力してください」というメッセージを発する必要があったと考えています。それがないと、「マラソン・競歩を開催するくらいなのだから、もう好きなだけ出歩いてもよいのだ」と受け取られかねませんから。
私は札幌市新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の委員でもあるので、札幌市の感染状況をずっと見てきました。そこで得られた知見からは、マスクをして黙って沿道から観戦するぶんには、感染の可能性は低いと考えられます。だからといって観戦を認めてしまえば、それ以外の活動も止められなくなる。それは感染拡大につながる可能性があり、避けなければいけません。その意味で、観戦自粛は感染対策として有効だったのではないでしょうか。
東京2020大会での経験は、救急医学・災害医学に生かしていく
上村先生がスポーツイベントの医療救護に携わるようになったきっかけは?
2013年から2015年までの3年間、洞爺湖で開催された「アイアンマン・ジャパン北海道」という長距離トライアスロンレースの医療救護体制を構築したことです。じつは、その大会には選手としてエントリーしていました。それなのに、医療救護の統括を頼まれて、医療班として参加することになったのです。
イベント救護は、災害医療のスキルアップにもなります。災害医療というのは、予期せずに見舞われる外傷や疾病を扱うわけで、常に想定外です。でも、イベント救護は、怪我や急病を想定したうえで準備万端に臨めます。そういう状況は、災害医療では通常はないので、トレーニングになります。
ご専門の救急医療や災害医療と、イベント救護はまったく違うように思えますが……
確かに違います。ただ、「目の前の取り散らかった課題を解決していく」という点は同じです。そもそも災害医療は、救急医の仕事と決まっているわけではありません。でも、救急医が多いのは、外傷を含めて全身を診られるだけではなく、日々の仕事で予期しない事態に遭遇したときの問題解決力が身についているからでしょう。私は北海道DMAT(Disaster Medical Assistance Team/災害派遣医療チーム)隊員でもあるのですが、災害時も、救急医としての普段の仕事も、イベント救護も、同じように対応しています。
東京2020大会のマラソン・競歩の救護医療を担当した経験は、北海道マラソンはもちろん、これからの救急医療や災害医療に生かしていきたいと思います。
※2021年12月の取材による情報です
※感染症対策を講じた上で撮影のために取材時のみマスクを外しています
- 特集③ 北海道の物語 ~東京2020大会のレガシー~/経験を未来へ