北海道の「道(どう)」って何ですか?
「道(どう)」というのは、律令国家〔りつりょうこっか〕<注1>の地方行政の基本区分です。起源〔きげん〕は古代中国で、それにならって日本でも天武朝〔てんむちょう〕(7世紀後半)に成立しました。
みやこに近い5つの国(山城〔やましろ〕、大和〔やまと〕、河内〔かわち〕、和泉〔いずみ〕、摂津〔せっつ〕)を畿内〔きない〕<注2>五カ国とし、それ以外を7道(東海道・東山道〔とうさんどう〕・北陸道・山陰道〔さんいんどう〕・山陽道・南海道・西海道〔さいかいどう〕)に分けました。それぞれの「道(どう)」には、いくつもの「国」がありました。たとえば東海道<注3>には、三河国〔みかわのくに〕、遠江国〔とおとうみのくに〕、駿河国〔するがのくに〕などが含〔ふく〕まれていました。また、それぞれの「道(どう)」ごとに、国府〔こくふ〕を連ねる官道〔かんどう〕が、みやこから放射状〔ほうしゃじょう〕に設けられていました。
つまり、五畿七道〔ごきしちどう〕の「道(どう)」は、「国」をいくつも含むような広い地域〔ちいき〕であり、また「道(みち)」でもあったのです。
ところで、五畿七道のなかに「北海道」がないことにお気づきでしょうか。
- 注1 7世紀後半から9世紀頃までの、天皇を中心とした体系的な中央集権的国家機構〔ちゅうおうしゅうけんてきこっかきこう〕。律・令は法典の名で、古代中国の制度を採りいれたものですが、日本独自の部分もありました。<本文に戻る>
- 注2 「畿」は「みやこ」の意で、政権所在地周辺の特別地域のこと。<本文に戻る>
- 注3 「東海道」と聞くと「東海道五十三次」を思い浮かべる方も多いと思いますが、この場合は、江戸時代に整備された五街道(東海道・中山道〔なかせんどう〕・日光道中〔にっこうどうちゅう〕・奥州道中〔おうしゅうどうちゅう〕・甲州道中〔こうしゅうどうちゅう〕)の一つで、五畿七道の道とは異なります。<本文に戻る>
いつから「北海道」という名称〔めいしょう〕になったのですか?
明治〔めいじ〕2年(1869)です。8月15日の太政官布告〔だじょうかんふこく〕で、「蝦夷地〔えぞち〕自今〔いまより〕北海道ト〔ほっかいどうと〕被稱〔しょうされ〕十一ヶ国ニ〔じゅういちかこくに〕分割〔ぶんかつ〕国名郡名等〔こくめいぐんめいとう〕別紙之通〔べっしのとおり〕被 仰出〔おおせいだされ〕候〔そうろう〕事〔こと〕」と周知されました。
この布告の出される以前は、「蝦夷が島〔えぞがしま〕」「蝦夷地〔えぞち〕」などと呼よばれていました。「蝦夷」とは、華夷思想〔かいしそう〕<注4>に基づく異民族〔いみんぞく〕の呼称〔こしょう〕です。したがって、「蝦夷地」とは「異民族の住む地」ということになります。
日本には、北の境の概念〔がいねん〕が希薄〔きはく〕だったのですが、江戸〔えど〕時代後期以降〔いこう〕、ロシアの進出に伴〔ともな〕って意識せざるをえなくなりました。いつまでも「蝦夷地」ではいけないので、新名称をつけるべきであるという意見は、江戸時代末期から多かったようです。しかし、それが実現したのは明治になってからのことでした。これにより、北海道が日本の版図〔はんと〕であることが、内外に宣言されたのです。
- 注4 中華〔ちゅうか〕思想とも。古代中国で、自国・民族を「華」として尊〔たっと〕び、異民族を東夷〔とうい〕・西戎〔せいじゅう〕・北狄〔ほくてき〕・南蛮〔なんばん〕などと称して卑〔いや〕しみしりぞけた思想。日本など中国の周辺国に、広くその影響がおよんでおり、古代日本でも、みやこを中心とする地域を「華」とし、王権のおよばない地域を夷狄〔いてき〕として、征服を正当化する思想となっていました。<本文に戻る>
北海道という名前の由来は?
幕末〔ばくまつ〕の探検〔たんけん〕家として名高い松浦武四郎〔まつうら・たけしろう〕が名付け親とされています。
松浦は、明治2年に道名に関する意見書を提出し、6つの道名候補〔こうほ〕をあげました(日高見〔ひたかみ〕・北加伊〔ほっかい〕・海北・海島・東北・千島)。このうち、「北加伊道」の「加伊」を「海」と変更〔へんこう〕して「北海道」となったとされています。松浦の意見書では、「加伊(カイ)」とは「夷〔い〕人」の自称〔じしょう〕であると説明されています。
すでに古代から、東海道、西海道、南海道などがあったので、北海道という名称は、ごく自然な感じがするのではないでしょうか。<注5>
- 注5 「北海道」という名称自体は、正式〔せいしき〕に名付けられる前から使用〔しよう〕された例〔れい〕があります(徳川斉昭〔とくがわ・なりあき〕『北方未来考〔ほっぽうみらいこう〕』など)。しかし、松浦は北海道という道名と国郡名を選定〔せんてい〕したとして褒章〔ほうしょう〕を授〔さず〕けられていることから、松浦が「北海道の名付け親」と呼ばれるようになりました。(参考:三浦泰之「「北海道」の命名」)<本文に戻る>
なぜ北海道だけ「道」なのでしょう?
北海道だけが、「道〔どう〕」でひとつの行政単位になっているからだと考えられます。
上に書いたとおり、「道」は「国」よりも広い地域です。江戸時代の「藩〔はん〕」は、ほとんどが「国」よりずっと小さいものでした。明治4年に廃藩置県〔はいはんちけん〕が行われた直後は、3府302県もありました。現在の県は「国」をいくつか含むような広さですが、それでも「道」よりは小さいものです。
北海道の場合も、北海道と命名された時に、11カ国が設定されましたが、「国」が独立した行政区域〔くいき〕とされることはありませんでした。明治2年、「開拓使〔かいたくし〕」という官庁が設置されましたが、その管轄〔かんかつ〕対象は、北海「道」という地域全体でした。
ところで、北海道にも県が存在した時期があることをご存じでしょうか?
開拓使は、十年計画のもと開拓を推進〔すいしん〕しました。十年計画が満了〔まんりょう〕すると、函館〔はこだて〕県、札幌〔さっぽろ〕県、根室〔ねむろ〕県の3つの県が、北海道に誕生〔たんじょう〕しました。<注6>
しかし、官吏〔かんり〕の数ばかり増えて非効率的だとか、開拓の実〔じつ〕があがっていないという批判〔ひはん〕が多く、内閣〔ないかく〕制度発足にともなう機構改革〔きこうかいかく〕を機に、3県は廃止〔はいし〕され、再び北海道全体を管轄対象とした「北海道庁〔ほっかいどうちょう〕」が設置されました。以来、北海道は全体で一つの行政区域となっています。
第二次世界大戦後は、北海道も他の都府県とならぶ普通〔ふつう〕地方公共団体となりました。名称変更〔めいしょうへんこう〕、配置分合〔はいちぶんごう〕、境界変更〔きょうかいへんこう〕をすることも可能ですが、そのためには、法律〔ほうりつ〕で定める必要があります。
- 注6 蝦夷地(北海道)には、道南を根拠地とする「松前藩〔まつまえはん〕」が、ほぼ近世を通じて存在していました。(江戸時代後期に蝦夷地の幕府直轄〔ちょっかつ〕に伴って本州に移封〔いほう〕《領地替え》になったり、幕末維新期の箱館戦争で榎本武揚〔えのもと・たけあき〕軍に攻撃されて藩主が津軽に敗走した時期を除きます。)
明治2年6月の版籍奉還〔はんせきほうかん〕で松前藩は館藩〔たてはん〕と改称し、明治4年7月14日の廃藩置県で館県〔たてけん〕となり、9月9日には弘前県〔ひろさきけん〕に併合〔へいごう〕されました。弘前県は同月23日、青森県となりました。したがって、北海道には、館県、弘前県、青森県という3つの県も存在したことになります。
青森県は、再三、松前地方の管轄〔かんかつ〕の免除を願い出、開拓使も同地方の管轄を願い出たため、明治5年9月20日、同地方は開拓使の管轄に移されることとなりました。<本文に戻る>
参考文献〔ぶんけん〕
- 『新北海道史 第三巻通説二』北海道編、発行、昭和46年
- 『開拓につくした人びと 1 えぞ地の開拓』北海道総務部文書課編、理論社発行、1966年
- 『北海道の百年 県民百年史1』永井秀夫・大庭幸生編、山川出版社発行、1999年
- 『北海道の歴史』県史1 田端宏・桑原真人・船津功・関口明編、山川出版社発行、2000年
- 『國史大辞典』吉川弘文館
- 『日本史広辞典』山川出版社、1997年
- 『日本国語大辞典』小学館、昭和49年
- 三浦泰之「北海道」の命名(『幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎 ―見る、集める、伝える―(北海道博物館第4回特別展図録)』(北海道博物館、三重県総合博物館、北海道立帯広美術館、松浦武四郎記念館編、2018年)所収)
(閲覧室)